20.9世紀少年

花束を君に

鬼トレと現代文

こんにちは

鬼トレをやっていて思いついたことがあるので、書き残しておきます

 

僕は大学受験のために予備校に通っていたことがあって、現代文の授業も受けていました

おそらく進学校では常識だったのかもしれませんが、

「現代文は毎日解かないと勘が鈍る。 1日サボると感を取り戻すのに3日はかかる」

という言い伝えを知ったのは予備校時代です。

 

僕はセンターでしか現代文に触れなかったし、そんなもんに割いている時間なんて殆どなく、

上記の言葉を教えてくださった先生も「理系クラスにこんなことを言うのは酷なのだけれど」、とボソッと本音をこぼすのでした。

 

ただ、現代文が本当に苦手だった自分には、この言葉が妙に印象に残って頭に焼き付き、大学受験を終えた後も気掛かりであり続けたのでした。

 

それから数年経ち、その言葉の真意を掴んだんじゃないかな?と思っています。

 

現代文という科目は、大学受験の中でも非常に特殊です。

暗記は殆ど通用せず、基本的な日本語の知識をいくらか頭に入れても、如何ともし難い解きずらさが付きまといます。

他教科の殆どの応用問題(難関大学未満)は、基本問題のやり込みをして紐解き方を習得すれば解けるものばかりです。

が、現代文はというと、「紐解き方」そのものの柔軟さに訴えかけてくる節があり、自分が現代文を解くときはいつも、意識をすり減らすようなストレスを感じていました

難関大学の問題になると、他教科の問題にもこの負荷を要求してくるようになりますけれど、

現代文は「知識」を持っていても誤魔化せないという点で、特に苦手でした。

 

これはあくまでも自分の経験なので、「? そんなことなかったよ?」という方もいらっしゃると思います

ただ、現代文を苦手とした方には理解していただける感覚なのではないでしょうか。

 

そして、この感覚は鬼トレを解いているときに感じるストレスに似ているように思います。

僕の体感として、現代文が要求してくる処理能力は鬼トレのソレと似ていて、つまりワーキングメモリを直に試される教科だったんじゃないか?

 

古文や漢文はもはや外国語だけれど、現代文は読んで字の如く「現代の言葉」です。

言葉というのは思考と密に関わり合っていて、現代文の能力はそのまま個人の思考能力の高さを試す好材料となるのだから、思考能力の下地になっている、だからこそ思考の土台たるワーキングメモリに否応無く訴えかけてくる出題になるのではないか?

 

この説は鬼トレを1日サボると、1日では勘が戻らないという自分の経験則とも合致しています。

っていうか自分の経験則から導き出した屁理屈なので、少なくとも自分の中では「そうっぽい」という程度のものなのですが。

まぁ、自分自身ワーキングメモリの多寡が人生の色んなシチュエーションに影響を与えているんだな〜〜と思うと、無駄なこと一杯していたなぁとつくづく思ってしまうし、気持ちのいいものではないよね

ただ、大学受験をしていなかったらこの概念を知ることもなかっただろうし、複雑です

ってかいい加減、受験期の話なんか思い出さないくらいに賢くなりたい・・・